２．
蒸気演算機室で、レニは世界情勢を探っていた。
現在、小規模な戦闘は勃発しているものの、大きな争いにまでは発展していない。
第１次大戦の痛手から回復していない国もあるが、敵は「人」だけではない。
闇に潜むものたちの暗躍は、いつの時代も決してなくなることはないのだ。
「おかしい。オーストリア方面は現在ようやく政権が安定し、危険なはずはないのに……」
演算機の前で考え込む。
ユキの母親が彼女を迎えに来ないのは、別に訳があるのだろうか。
彼女の話から、彼女の母親はとてもユキのことを可愛がっていたようだったので、迎えに来ないとは考えられなかった。
「レーニ！ こんなところにいたんだ」
「なに眉間に皺を寄せて考え込んでるんですかー？」
「アイリスに、織姫…………」
思考を断ち切り、彼女たちの方に顔を向けた。
「ねえねえ、またお散歩に行くんでしょ？ レニの新しいお友達ってどんな人？ アイリスも会いたいな！」
「そうですねー。友人は多い方が楽しいですし、私も興味ありまーす」
興味津々な様子で、二人は笑顔でレニに詰め寄った。
「………一緒に来る？」
迫力負けして、レニはそう言った。
「いいの、いいの？ わーい、やったー！」
「そうと決まったら、早く行くでーす！」
二人に引きずられるように、レニは演算室を出た。
雪のなかなか溶けない銀座の街を歩きながら、レニはアイリスたちにユキのことを話した。
「おかあさんを待っているですかー………。それなら、その間寂しくならないようにできたらいいですねー」
「そうだよ！ アイリスもお友達になる！ ……おとうさんとおかあさんに会えないのって、寂しいもの……」
織姫もアイリスも経験があるためか、自分のことのように心を痛め、気遣っている。
「優しい子だから、きっと二人とも仲良くなれるよ」
確信を持って、レニは答えた。
「ほら、あそこの教会だよ……………あれ？」
教会の階段の方を見て、レニは首を傾げた。
「どうしたですかー？」
「うん………ユキがいないんだ。いつもあそこにいるのに……………」
いつもならすぐにレニを見つけて手を振るユキの姿が、今日に限って見えなかった。
「何か用事でもあったのかな………」
「えー、アイリス、会いたかったのに………」
残念そうなアイリスの頭に、レニは手を乗せた。
「また今度、一緒に来てみよう」
「そうですねー。約束していたわけではないから、次の機会の楽しみにしましょー」
「うん。アイリスとも、友達になってくれると嬉しいな！」
３人は滑らないように注意しながら、雪道をまた帰っていった。
「え、ユキ、いなかったの？ ……おかしいな、その日はいたはずなのに」
少女は怪訝な顔をした。
マリアに持たされたホットチョコレートを二人でふーふー言いながら飲んでいたが、ふと先日、アイリスたちとここを訪れたときのことを聞いてみたのだ。
「いなかったよ。だから、帰ったんだけど」
「うーん。なにかようじでいなかったのかな？ せっかく会いに来てくれたのに。ごめんね」
「いいよ。また連れてきていい？」
「レニのおともだちだったら、だいかんげいだよ！」
「……ありがとう」
にっこりとレニは笑った。
自分の大切な人に好感をもってもらうのは、嬉しいものだということに気づく。
この少女はいろんな発見をも、もたらしてくれていた。
「……そういえば、ユキのおとうさんはどんな人なの？」
母親の話は良く聞いたが、父親の話はあまり聞いていないことに思い当たり、尋ねてみた。
「ユキが悪いことをしたら怒るけど、やさしいおとうさんだよ。でもね、照れ屋さんなの。おかあさんは『ユキだーいすき！』っていつも言ってくれるけど、おとうさんはあまり言ってくれないんだよ。でもユキのこと大好きなの、分かるの。おとうさんは恥ずかしいから言えないんだよっておかあさんは笑ってた」
幸せな家族の風景が目に見えるようだった。
レニに両親の明確な記憶はないが、心の奥底に優しいイメージの記憶はある。はっきりとしないけど、それが両親の記憶なのだろう。
羨ましい気持ちがないわけではないが、幸せそうに話すユキの姿を見るのは好きだったので、静かに聞いていた。
「あのね、好きな人には『好き』ってちゃんと言わないと分からないんだよ。いつも言っているとありがたみがなくなるって言う人もいるけど、言わないと不安にさせることもあるから言うんだっておかあさんが言ってたよ」
「そう………」
レニは自分の好きな人を心に描いてみて………何故だか頬が熱くなるのを感じ、俯いた。
「ユキはレニが大好きだよ！ だから、レニも好きな人には好きって言った方がいいとおもうよ。そしたら、きっと幸せになるから！ おかあさんも、ちゃんと言ったから幸せになったんだって」
「ボクもユキが大好きだよ」
「じゃあ、両想いだね！」
「うん」
幼く純粋な二人の少女は、素直にそのことを喜び合った。
好きには即答で言える好きと、そうでない好きがあるというのを彼女たちはまだ分かっていないらしい。
しばらくお喋り―――主に少女が話すばかりだったが―――してから、遅くなる前に、レニはその小さな教会を出て帝劇に帰ることにした。
ただ、母を待ち続ける少女の姿が雪に隠されそうな気がして、歩きながらいつまでも後ろを振り返っていた。
恒例のクリスマス公演が近付き、レニもあの教会に足を運べなくなったある１２月下旬のこと。
かえでに呼ばれて副司令官室に入った。
「かえでさん、用ってなに？」
にこにこ笑ってかえでは椅子を勧めた。
「あのね、大神くんから荷物が届いたの。これ、レニにって。……みんなにはクリスマスカードだけだから、内緒にしておくのよ？」
「隊長から……？」
手紙と、小さな包みを手渡される。
顔を上げてかえでを伺うと笑顔のまま頷いてくれたので、決心して包みを開けた。
「………ロザリオ？」
「あら、綺麗なロザリオね。良かったわね、レニ」
「うん」
頬を赤く染めて嬉しそうにロザリオを手に取っている姿に、かえでは微笑みを深くした。
「さ、稽古があるんでしょう？ 早く行ってきなさい」
「はい、かえでさん。ありがとう」
大事そうに手紙と包みを抱え、レニは副司令室を出た。
「少しは成長したかしらねぇ。大神くん、早く帰ってこないと、誰かにさらわれちゃうわよ」
かえでは楽しそうに笑いながら、独り言を呟いた。
自室に戻ったレニは、手紙の封を切った。
手紙には、懐かしい大神の筆跡でレニの誕生日とクリスマスを祝う言葉が綴られていた。
そして、気になることも書かれていた。
このロザリオは日本に帰って来たがっているようだから、レニに預ける、と。
何かに引っかかりを覚えたが、判断材料が少ないために推測のしようもない。
レニは首にロザリオを掛け、服の内側に入れた。
なぜだか、こうしなければならないような気がしたのだ。
気持ちを切り替えて手紙とロザリオの入っていた箱を大切にしまうと、稽古に出かけた。
クリスマス公演まであと数日もなかったのだ。
興奮と達成感に火照る身体を持て余して、レニは知らずに教会への道を辿っていた。
クリスマス公演は大成功だった。今も身体に余韻が残っている。
舞台の神様がほんの少しだけ微笑んでくれた、そんな舞台だった。
いつものように角を曲がり、教会の階段が目に入る。
そこに、いつもの白くて小さな姿を見つけ、レニは驚いた。
幼い子供がいて良い時間ではない。
心配にともなう怒りが、レニの足を駆け足にさせた。
「ユキ！！！」
その声に少女が顔を上げる。そして――――いつもとは違う、いつも以上の輝くような笑顔を向けた。
「おかあさん！」
え、と思ったが、身体は勝手に動き、少女の前で足は止まった。
「おかあさん、やっと迎えに来てくれたんだね！ ユキ、ずーーっと待ってたんだよ！」
ユキはレニにむかって両手を広げた。
なにか言おうとするが、口が動かない。ただ、胸にかかっているはずのロザリオが熱く感じられた。
『ユキ、ただいま。待たせてごめんね。これからはずっと一緒だからね』
優しい気配がレニを通り抜け、ユキを抱きしめた。
「うん！ 一緒にいてね、おかあさん」
ユキも甘えるように抱きついた。
その間にも少しずつ彼女の身体が輝き、優しい気配とともに光に溶けていく。
「ユ……キ………？」
幸せそうなユキの笑顔が、レニに向けられた。
「おかあさんが迎えに来てくれたから、もう行くね」
『ユキがお世話になりました』
柔らかい声で、その気配がレニに礼を言った。
「ユキ………」
レニはとっさに、言葉が出なかった。
花組以外で、はじめての友達だったのだ。年下だったけど、対等に話せる人だった。
彼女がいなくなるのは寂しくもあり、悲しくもある。
しかし彼女の幸せは、母親と一緒にいることだと理解していたし、このまま地上にいるのは彼女のためにならないと分かっていた。
だから、無理に笑顔を作った。
「良かったね、ユキ。おかあさんに会えたね」
「うん。いままで一緒にいてくれて、嬉しかった。ありがとう、レニ」
その笑顔も、光でよく見えなくなってきている。
「こちらこそ……友達になってくれてありがとう」
なぜか視界がぼやけていた。
しっかり見ておかないと、これが最後のお別れなのに、とレニは必死に見つめていた。
「ユキこそ……レニと友達になれて良かった。さようなら！」
「さよなら、ユキ。……幸せに」
ユキの傍らの気配が、レニの頭を優しく撫でた。そしてユキと二人で、少しずつ天に昇る。
光の粒子が見えなくなるまで、レニはじっと見送っていた。
「本当に、良かったね、ユキ」
流れ落ちる涙を右手で払い、レニは彼女の家へと帰ることにした。
帝劇は、舞台が跳ねたあとの活気に満ちていた。
宴会の席に戻る気にはなれなかったので、自室に戻った。
静かに、この夜を過ごしたい気分だったのだ。
不意に呼び出し音が鳴り響いて、レニは慌てて部屋の中を見回した。
キネマトロンの呼び出し音だと知っていたが、なぜこの部屋にあるのかが分からなかった。
テーブルの上にあるのをすぐに見つけだし、呼び出しに応じる。
「…………隊長」
「こんばんは、レニ」
画面には、懐かしい人の笑顔が映っていた。
「びっくりしたかい？ 実は、かえでさんのアイデアなんだ。今日だけ、レニと話して欲しいって。レニに誕生日プレゼントなんだそうだよ。これでプレゼントになるかどうかは分からないけどね」
照れくさそうに苦笑いした。
「ううん、すごく嬉しい。ありがとう、隊長」
驚きの余りしばらく固まっていたレニが、ようやく自然に微笑んだ。
その微笑みは、大神以外に向けられることがないということを、大神はまだ知らない。
「荷物はちゃんと届いたかい？」
「うん、届いたよ。そのことなんだけど………」
レニはいままでのことを大神に話して聞かせた。
「そうか………これも運命の神様のお導き、ってヤツなのかな」
ボソリと呟かれた独り言に、レニは聞き返す。
「お導きって？」
「うーん……」
なにから話そうかと迷っている様子だったが、大神も少しずつ語りだした。
「あのロザリオは、実は通りすがりの日本人牧師にもらったものなんだ。若い頃、日本でオーストリア人の妻と子供とで住んでいたらしいんだけど、第１次世界大戦の勃発で奥さんは帰国せざるを得なくなったらしいんだ。戦争が終わったら迎えに行くつもりだったらしいんだけど、子供が病気で亡くなってしまい、奥さんも後で訪ねていったら戦争中に亡くなったらしいんだ。ロザリオはその奥さんの形見だったそうなんだよ」
「……………」
レニは胸に掛けていたロザリオを見つめた。
「その子供も、おかあさんと会えたのなら良かったね」
落ち着いた声で、そう言った。本当に良かったと思っているのだろう。
その時、ユキの声が胸の中でこだました。
『あのね、好きな人にはちゃんと好きって言わないと分からないんだよ』
何故だか今、このときに言わなければいけない気が強烈にした。
「うん、本当だね。ボクも隊長と会えて良かったと思ってる………」
いきなり言われて、大神は面食らったようだ。
「………俺も、レニと出会えて良かったと思ってるよ」
優しい微笑みを見せられて、原因不明の動悸がレニを襲った。頭が真っ白になって、何を言って良いのか分からなくなる。
そのとき、ユキがポンと背中を押した気がした。
「隊長………ボクは、隊長が……大好き、だよ」
カーーーーーッと頬が赤くなって、レニは俯いた。
好きと言うのがこんなに恥ずかしいものだとは思ってもみなかったのだ。
「俺も……レニが好きだよ。………いつか迎えに行くから、待っててくれるかい？」
顔を上げると、大神も顔を赤くしながら強い瞳でレニを見つめていた。
「うん………待ってる。……でも……」
「でも？」
「……我慢できなくなったら、会いに行ってもいい？」
『大人だったら会いに行ったのに』―――ユキの言葉が、不意に思い出された。
「………もちろんだよ」
大神は笑顔で頷いた。
自分を理解してくれて、分かろうと努力してくれる大好きな人の存在が、レニにはなにより大事なものだった。
自分ももっと大好きな人が知りたい。そう言う感情が、少しずつ芽生えている。
そして今、二人の気持ちが通い合っているような気がして、レニは零れるように幸せな笑顔を大神に向けた。
静かな聖夜を、白い雪が舞い降りていた。
一人の少女の魂が救われ、少女の友にありったけの祝福を贈ったことは、彼女の名前と同じ、白い雪だけが知っていた。
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